2024年は、こちらにもアップします。

2017年3月27日月曜日

読了メモ「私の美男子論」 森 茉莉



読了。

1960年代に、雑誌「ミセス」に連載されていた
著者による人物エッセイ。
後半の対談は、少し年代が下がって70年代、
新しくても81年のもの。

私の人物スケッチ、異色の芸術家たち、私の美男子論
の三つから成るが、ちょうど、自分が生まれた頃の記事だったわけで、
そりゃもう一緒に載っている写真の御仁たちが若く、
立川談志なんかのお茶目なポーズも楽しい。
一方で、壮年で当時それなりの地位の方々も登場し
当時を築きあげていたいろいろな顔をみることができる。

三島由紀夫は、2回登場する。
これがまたかっこいい。
手をポケットに突っ込んだジャンパー姿と
あのギョロッとした眼で睨みを利かせた顔のアップ。
二つの記事とも、三島由紀夫のその眼について書かれている。
いつも傍にいて、その眼を観察できる三島夫人を羨ましいと思い、
その炎の眼は、闇の中でも白い光を放つのだという。
数年前に観た篠山紀信の写真展でも三島由紀夫の写真があったが
あの写真も確かすごい眼をしていたことを思い出した。

芸術家たちでは、
多々良純、吉行淳之介、武満徹などに混じって、
たいめい軒創業者の茂出木心護、
爬虫類学者の高田栄一などが登場する。
茂出木心護という名前はタイトルにはなく
文中もすっと屋号の「たいめい軒」で紹介されていて
店内でドンと座って屈託のない笑顔の写真が象徴的。
高田栄一は子どもの頃に、この人の本を読んで
結構はまったことがあったので懐かしかった。

後半の対談では、意外というかやはりというか
時代を先取りするような人生観、結婚観について、
堂々とすでに語られていてとても驚く。
文豪を親に持って育った環境の影響は大きいのでしょうけれど
いやはや、やっぱり世界が違うなぁと思ったのでした。
全ページを通じて、ヨーロッパでも欧州でもなく
「欧羅巴」の雰囲気がむんむん醸し出されてきますし。


私の美男子論に、榎本健一も出てくるのですが
それを読んでか、CDを購入してしまいました。
ノリノリでなかなか良いです。

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私の美男子論
森 茉莉
筑摩書房 1995年



2017年3月22日水曜日

読了メモ 「東京飄然」 町田 康


読了。

表紙には、
 作家のとらえた幻想的な東京
とある。

あえていうなら関西出身の著者による
紀行エッセイとでも言うのかもしれないが、
実は、東京を離れて鎌倉を巡って八幡宮や江ノ島に行ったり、
関西名物の串カツを求めて、その本数とソースのタッパの有無に
しつこいほどのこだわりをみせながら銀座をぶらぶら巡り、
銀ぶらという呼称について評論をかましてみたり、
ロックな魂を求めては高円寺に足を伸ばしている。
しかし、悲しいかなブーツは持ってないのだそうだ。

飄然となってなくてはいけないということで
目的を持って移動することはしないという。
それで、切符を買うことさえも躊躇してしまうのだが、
はて、いまでこそICカード乗車券全盛なわけだから
まさに飄然たる行動がとりやすい時代になっているのかもしれない。
江ノ電に乗って江ノ島に行き、
エスカーやサムエル・コッキング苑、岩屋洞窟に興奮していて、
妙な既視感もあいまって面白い。

飄然と歩くと漫然と歩くことは著者にとっては違うものらしい。
無目的であることには変わりはないようなのだが、
せっかくここまで来たのだから、
せめてお詣りでも行っておいた方がいいかと
大勢が向かう方向にぞろぞろ歩くのが漫然で、
ここまで来ておきながら、
お詣りしないとバチがあたるかもしれないが、
バチの当たる順番は永久的にこないだろうから
あえてお詣りしないという反目的に歩くのが飄然らしい。

全編、こんな感じである。
見開きで何枚もおさまっている街の写真もいい。
ぶつぶつ言っているのが異常な感じすらして面白いのであるが、
やや屁理屈っぽい。なかば言葉遊びのようなところもある。
そんな話につきあいながら一緒に歩く感じで読むことになる。

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東京飄然
町田 康
中央公論新社 2005年




2017年3月16日木曜日

読了メモ 「コーヒーに憑かれた男たち」 嶋中 労



読了。

カフェ・ド・ランブル(関口一郎)
カフェ・バッハ(田口 護)
もか(標 交紀)

自分はこれらのお店のコーヒーを飲んだことがない。
すでにご本人も亡くなっていて閉店している店もある。

本書では、この三人にもう一人のキーパーソンを加えた
四人によるコーヒーへのこだわり、信念、信条、
誇り、想い、願い、愛着が書かれています。
もう一つの別な言い方をすれば 執着 か。
いわゆる一筋一路の職人気質をも超えた鬼のような境地です。

彼らとコーヒーにまつわる背景には、
それこそコーヒー業界の技術発展や裏にある思惑、
珈琲豆市場の動きなどの大きなうねりがありながら、
一人一人の考え方や行動、実践そのものが
頑固という一言では言い表せないほどに頑ななまでのもので
それが読んでいてこわいくらいで、かつ痛快でもあります。

超高級ブランドと信じられているあの豆や
今や当たり前にもなっているおかわり自由のあのコーヒーの由来、
また、それらを語ること自体がタブー視されていることなどまでも
ばっさりと語られています。
どこの業界にも隠されている部分ってのはあるのですね。


自分もコーヒーは好きで、毎朝淹れて飲んでおり、
新しい豆がいいとか、買った豆をどう鮮度よく保存するか
なんてことが頭の中でいつもよぎりますが、
本書には、10年以上も寝かせた古い豆を使った
ぬるいオールドコーヒーの話がでてきます。
一体どんなものなんでしょうか。
まだ、あのお店で飲めるのかな。。。

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コーヒーに憑かれた男たち
嶋中 労
中央公論新社 2012年





2017年3月10日金曜日

読了メモ「妻と私」江藤 淳




読了。

妻が末期癌であることを告げられる。
余命は、早くて3ヶ月、もって半年。

本人への告知は、たった一人の家族である
夫である著者に任される。
夫は、告知をしないことに決めた。

仕事や研究会で調べ物をしていると
時間の経過を意識せずにすむが、
移動時間、特に乗り物に乗っていると
時間と自分が競争して過ごしているのをひしひしと感じたそうだ。
癌と闘う妻との会話も心を揺さぶられるが、
一人で妻のことを想い、自らの気持ちをつづるところに
もう何ものにもかえられない著者の胸のうちがある。

病魔は、著者にも襲いかかってくるのだが
これをなんとか乗りこえる。
二人きりの家族なのだから、
自分が日常と実務を動かさなくてはいけないと
読んでいて、すごい気力が迫ってくる。

そして、最期まで告知はしない。
でも、妻はそれをすべて赦してくれている。


本書は古書店で手に入れたのだけれど
前の持ち主だったのであろう栞が挟んであった。
それは、赤茶けた紅葉の葉っぱの栞が大小で2枚。
今でももちろん挟んで残してあります。

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妻と私
江藤 淳
文藝春秋 1999年

2017年3月6日月曜日

読了メモ「女子と鉄道」 酒井順子



読了。

去年、同じ著者のこちらの本を読んでいたので
またまたディープな熱い世界に連れていってくれると思っていたら
実はこれが意外とそうでもなかった。
トーンとしてはちょっと寂しさ、旅愁がある。
あまりにも「鉄」の世界が男ばかりだからなのか。
その男どもといえば、全国的にチェックのネルシャツにメガネに綿パン。

それでもやはり、彼女の行動力には目を見張る。
カメラを片手にホームで陣取るよりは「乗り鉄」な著者。
全駅を制覇する夢は必ずや達成されるのでしょう。
リニア試乗のドキドキ感を読んでいると
次の体験試乗がいつなのかと思わず検索してしまっていたのでした。
その昔、自分も下北半島や中国地方に各駅停車だけで行ったことがあったりで
ああ〜同じ血が流れているのだきっとと妙な仲間意識も覚えてしまう。

鉄道発祥の地 ロンドンでも鉄道に乗り、荘厳な駅舎に興奮するわけで
そこで自分も欲しくなったのは「TRAINSPOTTER」のパーカー。
色はモスグリーンがいいなぁ、いっそ作っちゃおうかなぁ
なんて妄想も広がります。

社会的な切り口もありました。
それは女性専用車両に関する考察。
痴漢対策とうことですが、あまりに対症療法で
根本的解決には至っていない実態をとりあげつつ、
女性しかいない車両の中で繰り広げられる人間模様のくだりは
男にとっては新鮮かつ不可侵な世界なのでした。

最後に身近な鉄道の一つである山手線の豆知識を。
内回りより外回りのレールの方が28メートル長く、
車輪の磨耗が偏らないように車両は内回りと外回りを
1週間で同じ回数だけ走るんだそうです。

それにしても、ああいいなぁ、
寝台列車とかにまた乗りたくなるよなぁ。

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女子と鉄道
酒井順子
光文社 2006年






2017年3月4日土曜日

チーズとコーヒーを楽しむ会



今回は本当に目から鱗。
というか、食べ物でこんなにビビッドに驚いたのはかつてないです。

チーズと言えば、
ピザトーストやグラタンにのせて焼いたりパスタにふりかける、
あとはチーズフォンデュとかラクレット。
そんな食べ方で、飲み物と合わせるとしたら
ワインか晩酌のお酒程度でした。

コーヒーと合わせるという発想はまったくなかったです。

で、これが超〜〜〜美味しかった。
正直言って、クセになりそうです。
帰りにチーズ買って帰りましたもの。

6種類のコーヒーとチーズが出てきて
最初は、それぞれ別々に一口づつ試飲試食。
しかし、合わせるコーヒーとチーズによって
口の中に広がる香りと味が新しく生まれ変わる感じで
最初に口にした時と全くの別物になります。
ホント驚きでした。

イベントは、元住吉のMuiというお店で、
奥の焙煎機があるスペースを使って
客席からもガラス越しに丸見え状態ななかで開催。

下の写真は客席にいらしてたT夫妻に撮っていただきましたw
ありがとうございました!
















2017年3月1日水曜日

読了メモ「スロー・イズ・ビューティフル 遅さとしての文化」辻 信一



読了。

スローフードとか、スローライフ、スローエコノミー。。。
ときどき見聞きする「スロー」な言葉たち。
これらを哲学っぽい解釈や語り口で、
時には俳句や詩などを交えながら、
今の生活のあり方、生き方を
ちょっと違う角度から見ることのできる
なかなか面白い読み物だと思います。

本書が問うている命題に、
科学技術が省いてくれた時間はどこに消えたのかとあります。
また、かつて遠かった場所はもう遠くはなく、
逆に、物理的にはずっと近い場所が、
かつてそこまで簡単に歩いていたことが信じられず、
かと言って車で行くのも妙な、遠い場所に感じたりするようになり、
そして、現代社会は、いつも次の将来のための準備に忙しい
「準備社会」になっている。
なんか実に不思議なことですけど、実感として確かにそう思います。

この時間についての話の部分では、いくどとなく
ミヒャエル・エンデの「モモ」が引き合いに出されています。
なかでも、きっとこれが真実なんだろうなと思った引用が、
「その時間にどんなことがあったかによって、
 わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、
 逆にほんの一瞬と思えることもある。
 なぜなら、時間とはすなわち生活だからです。」
というところ。

以前、星野道夫さんの本で読んだ、
自分が東京で仕事をし、通勤電車に乗っている時にも、
北海道やアラスカでヒグマが呼吸をして生きていて、
クジラが潮を吹いて、海の上をジャンプしている。
という一節も思い出したのでした。
時間って、とてもとてもプライベートなものですけれど
同時に、地球、いや全宇宙を網羅する恒久的なものでもあるのですね。

さらに、健常者と障害者の話を通じて
自立、自立というけれど、実は孤立していませんかと
自らを追い詰めている今の生き方に警鐘をならしています。
出会い、交通、共感を通じることで
より多くの自由を手にする可能性があるのではないのかと。
そうすることで、幾重にも時間の層が重なり、
きっと豊かな生き方をすることができていくのでしょう。


最近、ちょっとしたアクシデントが身の上にあって
少しナーバスな気持ちになってしまったり、
これまでとは違う時間の迫間を見つけようとしたりしています。
少しだけ立ち止まって自分を見つめ直す
いい機会を与えてもらったのかもしれないと
そう思って読んだのでした。

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スロー・イズ・ビューティフル 遅さとしての文化
辻 信一
平凡社 2001年